十二単衣釉彩という独自の技法で現代の琳派を表現してゆきたい。
■出会い
私が初めて出会った西本直文氏の作品は十二単衣釉(じゅうにひとえゆう)彩(さい)のお正月お屠蘇を注ぐにふさわしい器だった。酒飲みの自分はその場で百人一首に見る十二単衣の女性の優雅なお酌姿を想像した。それ以来個人的にはこれから日本の美を世界中に発信することができる若手芸術家の一人ではないかと思いこみ直文氏にお会いすることを楽しみにしていた。
お訪ねした日、傘寿記念展を終えられたばかりの瑛泉先生にも予期せずお目にかかることができた上に、2月24日から日本橋三越本店で開かれる「西本直文作陶展~釉彩と銀彩への誘い~」に備えてかなりの作品が準備された段階であったので両先生の作品を数多く見せていただくという幸運に巡り合えた。
お二人の工房は五日市の宮島街道を少し海側に入ったところにあって、通りからガラス越しに瑛泉先生の作品を見ることができる。1階に轆轤(ろくろ)室その奥に新旧の焼き窯があり奥様方とともに親切にご案内いただく。2階は前述のように親子展が開かれているギャラリーのようで、圧倒されてしまう。直文氏の作品は造形的な「青」のシリーズや十二単衣釉彩の新旧の作品、そして瑛泉先生が創始された縄文模様の芸州焼を独自の世界で承継しようとする銀彩の新作があった。
■親と子の話
前後して、直文氏に快活な広島弁でまるでギャラリートークのようにお話いただいたのだが、どうして偉大な父・瑛泉先生と違った作陶を目指されるに至ったのか、十二単衣釉彩を創出する切っ掛けは何だったのかが最も興味があるところであった。
直文氏が当初憧れていたのはグラフィックアートの世界。ところが大学進学のためにYMCAに通っているとき、紙粘土の作品コンテストがあり、指導者から高い評価を受けさらに自分自身も造形の愉しさを覚り工芸コースに急遽方向転換している。
大学に入ると経験豊富な同期生が容易に熟す(こなす)課題が全くできなかったため大阪から毎週のように里帰りして父の教えを受けている。ただし教えられたのは湯呑みを引くことだけだったという。そして自由な学生生活を満喫することなく毎日湯呑み作りに没頭した結果、優れた作品を生み出すに至っている。ところが三年の時、突然スピードも落ち60cmの皿も引けないスランプに陥った。このとき父の「しばらく遊んでみたら」という電話を受け1月間ツーリングで各地の窯業場を回った結果再び作陶の楽しみと自信をとりもどすのだが、その間そしてそれからも瑛泉先生のメッセージはyou are OK・褒め言葉のみであったそうだ。
■独自の境地へ
十二単衣釉彩の創作は、釉薬を幾度も重ね合わせて焼成を繰り返すとき偶然に配合を間違えて生まれた産物であるという話や、宮島の平家納経の蒔絵からヒントを得て、さらに温度や発色剤の調合に試行錯誤をして今では27色を自由に組み合わせた作品を生み出すようになっていること、国内主要デパートやギャラリーと結付を深めた活動などお聞きしているうちにあっという間に約束の時間をオーバーしてしまった。
親子で広島の陶芸分野を切り拓き裾野を拡大する活動から、日本の芸術文化の向上・普及に貢献されている有様を見聞きしてから、五日市地区には三原理事長はじめ国内で活躍されている多くの芸術家がお住まいなので、行政と住民を巻き込めば「間違いなく創作芸術の文化村が作れるのではないか」というTM(タウンマネジメント)の強い思いが消えずにいる。
<文・馬場宏二/写真・原敏昭>