アトリエ訪問第27回 笹賀 捨雄氏

自然との対話からいまは心に残る傷跡がテーマである。

プロフィール
1931年 呉市広町に生まれる
1974年 自由美術協会会員
1997年 呉市条例(芸術・文化功労)表彰受賞
2007年 第71回自由美術展 平和賞受賞
現 在 自由美術協会会員、広島美術担当、 呉美術協会会員<理事>

  笹賀氏はお名前が捨雄(すてお)である。雅号ではなく本名である。出身地である呉市は同じ海軍に縁がある韓国の鎮海市と姉妹都市していて、美術交流では、洋画部門の代表の1人として参加されたり、呉沿線の絵画展など、当地域の美術振興に大いに貢献されている。先生は、1931年生れになっているが、年ひと回りサバを読まれているのではと思うほどお若く元気だ。60歳の時から登山に夢中になり、地元の山で訓練を重ねて、富士山や北アルプスの山々を制覇されたという。これが若さと元気の源かもしれない。

  アトリエはJR呉線を超えた矢野の坂の上にある。アトリエの北窓から自衛隊の駐屯地、マツダの工場や府中の山並みが見渡せる。昭和40年代まで、鉄道の向こうは海だった。先生は「点・線・面を研究せよ」と執拗に語った故灰谷正夫画伯に師事して抽象画の世界に入られたが、海が街並みに変わったように、先生の絵のテーマも自然との対話から「原爆の劫火~限りない赤から黒へ」に変わった。

  その切っ掛けは、原爆投下から60年を経た時、旧友が初めて被爆時の様子を口にした「亡くなられた人達が焼かれ、限りない赤から黒に変わった」という一言だった。当時、中学生の先生は、学徒動員で江田島の弾薬庫の作業を命じられていて、原爆投下の記憶は一瞬の青光りとその後湧き上がる黒い雲しか残っていない。限りない赤から黒へというイメージを追い求めながら、今は井伏鱒二の「黒い雨」に触発され、「被爆した家の火の中から必死で脱しようとする先に見える光明」に取り組まれている。先生は数々の賞を受け取られているが、71回の今自由美術展では靉光賞より平和賞の方がふさわしいということに決定している。

  このようなお話なのに、グラマンの機銃照射を受け、逃げ惑った話など様々なエピソードを交え明るく元気な口調でお話いただき、おまけにGlenfiddichのスコッチや息子さんから送られた芋焼酎の原酒などを、遠慮なく口利きさせていただいたものだから随分失礼があったような気がしている。しかしながら深い赤色がいつまでもしっかり目に焼きついている。

<文・馬場宏二/写真・原敏昭>

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取材中の風景