第73回アトリエ訪問 画家 迫田嘉弘

遠くの山の頂が白く見える。師走のつめたい風と澄んだ太陽の光の中、迫田氏のアトリエを訪問した。
 
プロフィール

1944年

広島県呉市生まれ

1966年

光風会展初入選・広島展受賞(以後6回)

1968年

日展初入選(以後30回)

1969年

改組第1回日展入選

1971年

個展<’73、’76、’79、’82、’86、’07、’10年>

1975年

光風会展「光風賞」受賞

1986年

県美展審査員<’92、’95>

1989年

安井賞展受賞

1992年

中国新聞創刊100周年広島の画家100人展

2002年

光風会展「田村一男記念賞」

2007年

八千代の丘美術館入館・広島と大邱会展

2010年

光風会展「辻 永記念賞」受賞

個展(福屋八丁掘本店美術画廊)

2011年

光風会審査員・評議員

現在

光風会評議員・日展会友・光風会広島支部副代表

中国新聞情報文化センター講師・GROUPアルサコ主宰

■偉大な背中
 お通しいただいた玄関の正面に、丁寧な仕事の美しい椅子が一脚、オブジェのように置いてあった。岡崎勇次先生の形見としていただいたものだそうだ。岡崎勇次先生は因島出身の、光風会の広島支部長を勤められた広島を代表する洋画家だ。「1991年に逝去される前年まで、厳寒の北海道に毎年スケッチに出かけられていて、病の中でも厳しい自然のなかに身を置き、作品を制作し続けてこられた方だった」と迫田氏が当時の岡崎先生のご様子を語った。何気なく語られたその言葉に、氏にとっていかに大切な人であったか思いがこめられているように感じた。他人に思いやりがあり、自分に厳しい偉大な師匠の背中が見えるようである。「金の卵かと思ったら中は泥だった」岡崎勇次先生にそう評されてね、と穏やかな笑顔で氏がお話になった。文面だけ見ればなんとも辛辣な表現であるけれど、親しい関係だからこそ出るブラックユーモアだろう。学生であった1966年に初めて光風会展に出品した作品が広島市長賞を獲る。当時の氏の自室から見えた景色を描いた作品で、呉の海岸と港、瀬戸内の風情が描かれた素敵な作品であった。その作品を見た岡崎先生の方から氏に会いたいと連絡があった。金の卵かと思ったら中は泥だったとは、才能のある氏に対して岡崎先生が戒めを込めて評したのではないかと推測する。広島の若い作家を育ててきた岡崎先生の言葉にはそのままの語彙とは関係ない霊的なものを思わせる。その後、氏は一度目の挑戦で日展に入選する。以降30回の入選を果たし、今もその挑戦は続いている。2階のアトリエに通されると、一番高いところで岡崎先生の写真が飾られていた。岡崎先生の奥様が選らばれた優しいお顔の一枚と作品の前での一枚。ご逝去されて22年の月日が経っているが、絆はなくならないのだと教えていただいた。

■6畳からのスタート
 独身の時代は6畳のスペースにキャンバスを立てて、布団は押入れにひいていたそうだ。床そのものが絵の具で汚れないよう新聞紙をひいて制作し、絵の具が落ちたところにはさらに新聞紙を重ねて制作を続けたので、新聞紙のカーペットができていたという。今は天井の高い二十畳の空間。壁面はどのサイズの絵でもかけられる機能的なアトリエが氏の制作の拠点だ。氏もいろいろな作家や仲間のアトリエを見て今のアトリエになったと教えてくださった。公募展に挑戦しているものならば誰しもが頭を悩ませる大判絵画の搬入出は、氏のアトリエならではの工夫がある。床の一部を切り取り建屋の外、横の通路に直接絵を上げ下ろしできるようになっているのだ。床下収納にも見えるそこを開けていただくと、なるほど外であった。床の穴からキャンバスを吊るして外へ出す仕組みにとても驚いた。

■運命の出会い
 アトリエの扉に写真が貼られている。カレンダーでたまたま出会った風景が素晴らしくてとっておいた一枚。写真の部分だけを切り取り飾って、奥様といつかは行ってみたい、と話しておられたそうだ。結局その景色がどこなのかわからないまま、その後10日あまりヨーロッパへ旅行をしていた時に、偶然、写真そのままの景色に出会う。イタリアにて音楽の勉強をしている知り合いのお嬢さんに「海のある所に行きたい」と伝えると、そこに連れて行ってくれたそうだ。「そらびっくりしましたよ」氏の口ぶりに、聞いていてもその当時の感激が伝わってくる。運命や偶然が重なる、ドラマのようなことが起こったのだ。そのあと直ぐ奥様に電話をして感動を伝えたそうだ。険しい海岸に色とりどりの家屋が並ぶ景観。そこは北イタリアのチンクエ・テッレの景色だとわかり、周辺の五つの村が似た景色をしているからスケッチや記録をとって回った。 それまでは山陰の重厚な海や空を描いていたところから、鮮やかで眩しいイタリアの景観への挑戦が始まり、今日の氏の作品へと続いている。その後会派を越えた仲間と3年おきくらいにスケッチや取材で海外をまわられたそうだ。ヨーロッパ。中央アジア、さまざまな景色が、氏に描かれるのを待っている。

■人の繋がりと感謝の心
 氏が主催しているグループ「アルサコ」には、それぞれの個性を大切に楽しみながら描くことを実践している仲間が集っている。フランス語かイタリア語のような素敵な語感の言葉だったので意味を先生に伺うと、「アルパークの迫田教室でアルサコ!」と茶目っ気たっぷりに教えていただいた。氏の知人がつけてくれたそうだが、素敵なネーミングだ。今では美鈴が丘公民館など、グループの輪も広がっている。仲間でモチーフを持ち寄り、一緒に学んでいくのはまた楽しい絵の一面だという。「感謝の気持ちを忘れてはいけない」。師、友人、仲間、家族、同僚、さまざまな人の支えがあって作品を描き続ける事ができているとお話しになった。 2014年、光風会が100回の記念展を迎える。評議員も勤める氏にとっても大きな仕事だ。「描きたいものはたくさんある、自分のペースでやっていく」というお言葉の後に、「今からエンジンを噴かして頑張るとき」と力強い一言をいただいた。

<文/中木風子・写真/原敏昭>

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取材中の風景