第57回アトリエ訪問  近藤たいわ氏

■プロフィール
1953年広島大学教育学部(美術)卒
1960年新構造展初入選
1963年会友推挙、以後準会員、会員推挙、広島県支部長20年務める。
2009年5月新庄学園100年の百点展
新構造80周年記念西日本展
2009年高原の美術展
2009年個展 傘寿百景展
2010年近藤たいわ・はらみちを同級生二人展
2011年5月新庄学園OB展(30回)7月新構造83回本展 7月グループ集(34回)
現在日本美術家連盟会員・新構造委員・常任審査委員・広島県顧問

“争いを知らない、豊かで、平和なこの国の縄文時代へ思いを馳せています”。

このメッセージを当美術館に寄せられた、近藤たいわ氏。

今回のアトリエ訪問では、画業の外に、氏が縄文に馳せた思いの片鱗を伺った。
その時代の人々と自分たちとは地続きなのだと感じることができた。
わたしにとっては世界観のパラダイムシフトである。

茫漠たる時の大河。散逸しかけた指標が点在する過去と思えた歴史。
そういうイメージでしかなかった過去の時代。
近藤たいわ先生が、神話が伝える出来事と実際の人々の生活の話をされると縄文時代弥生時代に生きた人々の表情、心の激動が伝わってくる。

■ 井戸水の自然
自宅に井戸がある生活。大朝にあるアトリエは空気も水も心地いい。伺う途中、伸び盛りの稲が青く風をうけて川沿いに広がる様子を見て来た。住宅地もゆったりと広がり、無理がない。計らずも伺った日は氏の誕生日。この記念日に自宅にいらっしゃることは珍しいことだと奥様がいわれる。毎年新構造本展の審査で東京におられる時期なのだ。美術館の都合で2年間だけ会期がずれるので、今年はこちらで傘寿+2歳を迎えられたとのこと。新庄学園美術部小田丕昭先生の門下生から始まった画業も60年になる。
廃校を利用した筏津芸術村の村長をつとめたり、大朝神楽競演大会など地域のイベントでも展覧会をひらくなど、地域の芸術文化の振興に力を注いでる。

■ 土を造形する
画業だけでなく、陶芸の指導もされていて、自宅のとなりに工房がある。近隣の方が習いに来たり、高校から保育園まで出かけていって陶芸教室開く。自宅前やアトリエに埴輪があるのは、長年文化財保護委員で長を務めていた経緯からとのことだ。発掘調査などにも関わり、地史にも造詣が深い。縄文時代は10キロメートル四方の動物とどんぐりの採集で親戚一族の生活が成り立ち、戦争が起こる理由もなく平和な集落が人々の生活の場であった。土偶にみられる装飾的な人体は、村の中心がお母さんであり、女性がおしゃれをしている姿をうつしたものなのだとか。(よく言われることがある宇宙人ではないよと苦笑される)

■ 鉄山師とオロチ
神楽の題材として人気の、八俣の遠呂智(オロチ)について、神話の底流にある事実を教えていただいた。オロチの杉や苔をはやした胴体。血を流した姿。これは鉄を精製する鉄山師のことだそうだ。八俣の頭は頭目がたくさんいたことを示し、血のような赤い川は鉄分なのだ。山から流れてくるこの水が、農耕を始めた邑々の水田に流れこむと作物が駄目になってしまう。このため、鉄山師と農民との間に軋轢が生じたのだそうだ。

■ 詩人として随筆家として
詩人としての活動も長い。詩と絵画の連動した展覧会をひらくこともあるが、日本作詞家協会に所属し、プロとして活躍されている。坂本九、扇 ひろ子にも詞を提供し、校歌、民謡、演歌を数多く作詞してきた。地元、加計中学校 校歌のも作品の一つだ。氏が出された詩の本には神話を題材としたものや、子供たちに宛てたメッセージ、人の心の奥深くから引き出される、普段気付かなかった感情などひとつひとつ、ゆっくり浸るほど味わい深くなる詩が連なっている。最近は散文、随筆を中心に書かれ、月刊誌に寄稿している。近く随筆集を出す予定ということだ。

■ 時シリーズと縄文と
鳩時計からぶら下がっている錘の地面につく程近づいた様子を描かれる時シリーズは、人生を振り返る時期と思い始めた頃からのテーマだ。ほかに、邑の母としての土偶を配した構図を描かれることも多い。「近藤たいわ」という地層に豊かな記憶が重なっていく。錘が着地するまでの時間にアキレスと亀の無限が働きますように。

<文/泉尾祥子 ・ 写真/原敏昭>

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取材中の風景